Note

2021年7月 – Completion of the movie 映画完成を喜んでくれた仲間たちの寄書き(抜粋)

 

Isabelle Townsend (イザベル・タウンゼンド)/ 出演

 2018年8月6日、列車がゆっくりと長崎駅に入ってきた夜のことを、私はずっと忘れません。私は興奮に包まれていました。私は家族と一緒に、父が大切にしていた場所、取材していた場所に到着したのです。そして父の本の主人公である谷口稜曄さんについて、その文化について、家族について、人々の優しさや互いへの敬意、現代生活と混ざり合った伝統意識、そしてこの街が耐え忍んだことを優しく思い出させてくれる長崎に残る傷跡を目の当たりにして、発見の旅に乗り出す準備がありました。これが私の心を揺さぶりました。

80年代に『長崎の郵便配達』を読んだとき、この生き様の物語はなんて非現実的だろうと思ったのを覚えています。しかし私はそれに魅了されたのです。私はこの本で初めて父の文章を知りました。それから何年も経って、この物語が私の人生に戻ってきたことに、今でも驚いています。だから、谷口稜曄さんが亡くなったとき、父の友人を失っただけでなく、理由はよくわからないけれど若い頃に尊敬していた人を失ったような気がしたのです。
撮影中、私は見えない手に引かれ、見えない力に支えられて前進しているように感じました。疲れを感じることもなく、常に好奇心を持っていたので、もっと何マイルも歩くことができたかもしれません。(そうなれば、映画はとても長くなっていたでしょう…)。
スタッフや長崎の町が私たち家族を歓迎してくれたことに深く感謝しています。米田さんの家で特別な料理を作ってもらい、スイカを使ったゲームを楽しんだ夜のことも忘れられません。松崎淳子さんのおかげで、私は伝統的なスタイルの服を着ることができました。その服を着ると、とてもエレガントな気分になりました。森の中でキリシタンたちと出会った蒸し暑い日の撮影や、冷え切った白いバンの中でケビンの助けを借りて本の一章を読む連絡をしたビーチでの撮影を覚えています。原爆被害者の孫であるカワハラトシさんが、平和公園でロウソクを描かないかと誘ってくれた時のエネルギーは心を打たれました。第73回平和祈念式典はとても感動的で、101歳の被爆者女性の病院での笑顔や、幼稚園での読み聞かせは今でも忘れられません。数え切れないほどの思い出が映画の中にも出てきますが、人生の小さな奇跡をいつまでも大切にしていきたいと思います。(以上、英語原文を翻訳し掲載しました)

 

庄司秀子 / 長崎・カレーと工芸ケヤキ(スタッフの憩いの場)

 港を取り囲む緑の丘陵、上り下りの細い坂道、小さな丘の上の神社に畠、メジ ロ採りや木登りが上手なスミテル少年はここが大好きでした。 やがて赤い自転車の郵便配達員になり大好きな長崎の街を誰よりも早く配達する喜びに満ちた日々がありました。長崎の誰にでもあった慎ましく穏やかな日常が一瞬のうちにこの世の事とは思 えない景色と変わり果てる様は幾多の映像や言葉や文章になろうとも真実には程遠いでしょう。 七十五年が過ぎ、桜の青葉が風になびき、電車もゆっくり人々を運び、波静かな港に離島航路が着岸している。かけがえのないこの日常を二度と失う事があってはなりません。タウンゼント大佐と谷口さんが心から願い行動された核兵器の無い平和な世界。「核兵器禁止条約」発効の今年、この映画が公開される意義は大きいと思います。

 

寺田拓真 / 出演

 映画が無事完成したことをとても嬉しく思っています。谷口稜曄さんのことは、学校の平和学習においての写真や映像でしか知りませんでしたが、映画を通して、国連本部での核拡散防止を訴える演説や長崎原爆被災者協議会の会長を務めるなどの平和活動にご尽力されていることを知ることができ、同じ長崎県民としてとても誇りに思います。映画での経験は普段の生活では知ることも経験することもできないことばかりで、私の人生においてとても有意義なものとなりました。また、戦争の恐ろしさ、平和の尊さを改めて考えることのできる時間でもありました。今回の映画制作に参加させていただき本当にありがとうございました。

 

白井玲奈 / 谷口さんご親戚(東京)

 祖母ケイコ(谷口稜曄の姉)の葬儀で再会した際に、大伯父、谷口稜曄から『ナガサキの郵便配達』を再出版したいという強い願いを聞きました。その後、映画が制作されたことを大変嬉しく感謝しています。何よりも、このプロジェクトを通して、著者ピーター・タウンゼント氏の実の娘、イザベルさんと出会えた奇跡は大伯父からの大きな贈り物と思えてなりません。そして彼が一生をかけて訴え続けた世界平和の願いを、私達が共になって後世に伝え続けてほしいという、強いメッセージも感じています。イザベルさんと、子を持つ母同士として、またいつかそのようなお話ができればと願っています。

 

高部葉子 / 衣装

 川瀬美香監督からのひと声に始まった2018年夏の衣装制作を思い出します。過去〜現在〜未来へ紡ぎ繋ぐ人々の暮らしに、スッと溶けこんでいくような日常の何気なさを衣装制作では大事にしました。ありきたりで地味に思えますが、今を生きる私にも日常はとても大切です。制作中、折々に監督から届いた短い言葉や、「長崎の郵便配達」を読み浮かぶイメージは、その思いを補完し後押ししてくれました。かつて当たり前に人々の生活があり、この先も続いていくことの儚さと尊さを考えます。あの夏、微かな希望の中に果敢に生を求めた一人の少年も、今日を一つひとつ積み重ね、家族との日常を守り、かけがえのない命を次へ繋いでいったのだと。映画の完成にご尽力下さった全ての皆様に深く感謝申し上げます。そして長い歩みに一区切りの川瀬美香監督には心からねぎらいの言葉を贈ります。本当におつかれさまでした!

 

高田明男 / プロデユーサー

 アトリエに電話が鳴り、電話の向こうから、細い声で「川瀬さんいますか、谷口です」というのが初めての谷口稜曄さんとの出会いでした。本を再販したいそうだということは聞いていて、その本の原作がピーター・タウンゼンドさんの”The Postman Of Nagasaki”であることを知り、ピーターさんを調べていたら、英国空軍大佐で有名な映画のモデルでもあり、同一人物なのか疑いました。その後、イザベルさんがフランスにいることがわかり、彼女がファッションモデルとして有名写真家から数多く撮影されていると知り、すごいことになってきたと感じました。

川瀬さんとは10年以上も一緒に仕事してきましたが、私たちが戦争や被曝のことを描けるのか、またイザベルさんに出演してもらうことができるのかなど、無茶な企画だと思う反面、できたらすごいことだと興奮したのを覚えています。

・・・そして、5年が経ち、映画が完成しました、できた。

 

川瀬美香 / 監督・撮影

 2016年、運命は勇気と共にやってくる。
2017年、長崎に1ヶ月滞在。タウンゼンドのように町を歩くが画がない事を初めて知る。どうなのこれ。決定的に映画はもう駄目だと思った7月30日。無言の長崎が自分を見つめてくる。
2018年、フランス、長崎、東京。人の力強さや素晴らしさに出会う。再び歩く事にする。谷口さんの精霊舟を目指してイザベルとカメラは8月の長崎へ。
2019年、イザベルや仲間たちと歩いた道は、水たまりがあったり、そうとうな雨風が通過したけど、もう今ではそういうのは忘れてきたよ。
2020年、世界はどうなっちゃうの。時代が別次元に飛び込んだかのよう。外出自粛は編集と1日1回の散歩。自然の力をかりてようやく気持ちは回復する。1982年のタウンゼンドさんもそうだったと、彼の録音テープを思い出す。しかし日本は芸術文化への風あたりがよくないな。
2021年、私はほぼほぼ善人じゃないし、まったく有名じゃないけれど、勇気を出して良かったね。友達が増えた。無謀だと噂された映画だけども完成した。今はもう希望しか見えない。

 

山田博一 / 撮影制作

 映画の撮影というと、どうしても監督や出演者にスポットライトが当たりがちですが、今回の撮影は、多くの長崎の方々に支えられた撮影でした。 撮影の下見に行った時、4日間運転手を務めてくれた皆様。その後も事務所を借りたり、差し入れをいただいたりしました。撮影スタッフが滞在するための家屋を提供してくださった皆様、大変な撮影が続く中で、皆様から差し入れていただいた食事で、私たちは元気を取り戻し、最後まで頑張れました。8月の猛暑の中、氷を差し入れていただいたり、船を出していただいたり(撮影が押してかなりお待たせしましたが、いやな顔一つせずに私達が行きたい所へ連れて行っていただきました)我々をねぎらうために、バーベキューを開いていただいたり、撮影用の自転車を手配していただいたり、出演者の少年を紹介していただいたり・・・あーもう書くスペースがない・・。ひたすら映画のために尽力していくださった方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

大重裕二 / 編集

 2016年、監督の川瀬がピーター・タウンゼンドの娘イザベルと出会い、この映画は俄に現実味を持って動き始めた。翌2017年8月、僕らは撮影準備のロケハンで長崎にいた。「さあ、来年撮るぞ」と思いを胸に烏岩神社から実景を撮影していた時のこと。「谷口稜曄さん死去」の訃報を知った。当時イザベルが谷口さんを訪ねる物語を考えていたから「その時点で、もう映画は作れない」と確信したけれども、悔しかったので、夜稲佐山の展望台に行き、そこから見える100万ドルの夜景を撮影して帰った。
しばらく何も起こらなかったが、ある日イザベルから川瀬に連絡があった。「父が長崎と谷口さんを取材していた時のカセットテープが見つかったの」と。映画は再び動き出し、今に至る。 僕は編集だけでなく、撮影も参加させてもらった。ようやく映画が完成して、「出来た!」と。 僕らは、この映画を所謂、原爆映画として作ったつもりはなくて、「僕らの未来についての映画」と思って作りました。そう気づいていただけたらと、切に願います。 余談ですが、その悔しかった夜のカットは精霊船シーンの最後に使いました。

 

ロ・リレイ / モーショングラフィックス

 今から約6年ほど前、川瀬さんと一緒に渋谷にある日本民藝館に一緒に行ったあとの帰り道でした。川瀬さんの前作映画を観た長崎の原爆被害者の谷口稜曄さんのご親族の方から連絡を受け、既に絶版になったピーター・タウンゼントさんが谷口さんを主人公として書かれた「長崎の郵便配達」の日本語版の再販に是非協力してほしいと打診を受けたと教えてくれました。ご親族はそれまでにもなんとか手掛かりはないかと色々手をつくしていたらしく、某FのつくSNS上でピー ター・タウンゼント氏の娘のイザベル・タウンゼントにたどり着いてメッセージを送ってみたけれど返事がなかなかないということでした。教えてもらったフェイスブック上のイザベルのプロフィールのページに「俳優・人形劇」と書いていて、イギリスでは特権階級だった人の娘が謎の人形劇団長?と聞いて、私の好奇心がムクムクと湧いて川瀬さんに頼まれる前にネット検索を始めました。私の恋愛映画に対する興味のなさから、そのピーター・タウンゼントはかの有名な映画 「ローマの休日」の話のモデルになったイギリスの現エリザベス女王の妹のマーガレット王女の元恋人ということをこの時点で知り、ますます私のワイドショー的な好奇心に火がついて、果たしてその人形劇団長は本物の娘なのか?ということを知りたくて、ネットでピーターさんの前妻、前妻との子供など調べたりしました。しかしはっきりした証拠を突き止められなかったので、私の中ではSNSのイザベルは「黒寄りのグレー」という疑惑を残したままの考えで止まったままになったのでした(今考えるとかなりいい加減な判断ですが)。しばらくして、私の疑惑に反して川瀬さんがイザベルと連絡が取れ、間違いなく本当の娘であると判明し、しかもイザベルは喜んでこのプロジェクトに協力してくれることになりました。更に映画化することになり。コロナ禍や色々な困難があったにも関わらず沢山の方々のご協力により無事完成させることができました。めでたしめでたし。川瀬さん、私の戯言をまともに聞かなくてよかったです。

 

坂本肖美 / 写真家(長崎制作協力)

 2017年の夏に川瀬監督はじめ映画人たちの長崎市内調査に同行する日々が続きました。映画作家がゆっくり静かにカメラを向ける様子を撮りたくなり、私はちょっと離れたところから長崎の景色と共に撮りました。翌年2018年の夏にイザベルは家族と共に長崎へ。映画撮影が始まりました。イザベルの表情、長崎のまちを歩くイザベルと追う撮影クルー、撮影合間のひとときなどいろいろなシーンを撮り逃したくなく必死で追いました。ピータータウンゼント氏と谷口さんが築いたものが、数十年後に次の代に託されてドキュメンタリー映画になっていく。制作が進む過程はスムーズにいかないことも多かったが、この映画も、進む過程も人の心を動かすなにかがあり、時期時期で応援者も現れ映画は完成へ向かう。映画『長崎の郵便配達』に関わり出してからの日々は私にとってもとても大切な時になっている。自分もどう成長していけるのか、そして、この映画はゆっくり、静かに、人に世に伝わり、今を生きる私たちへの大事なメッセージになるのだろう。

 

山崎加代子 / デザイナー(長崎制作協力)

 川瀬監督と友人たちが、はじめて長崎の私の事務所に来られたのは数年前。川瀬さんは「谷口スミテルさんの映画をつくりたいのです」と、熱く静かにきっぱりといわれました。しばらくお話をしている時、本棚の東松照明『長崎マンダラ』に気づかれ目を見開いて「何故ここにあるんですか?」と。グッと距離が近まりました。デザインは人との出会いで生かされるもの。今回も手探りながら川瀬映画の根幹に少しでも近づけたら、と思っています。ピーター・タウンゼンドさんとスミテルさんの出会いから39年後のこの夏に映画完成。それぞれの夏がひとつの輪となり回りはじめたようです。さてこれからどんな波が生まれどこへ行くのか。お楽しみはこれからだ。

 

橋口佳代 / 建築(長崎制作協力)

 川瀬監督と初めてお会いしたのは、2016年監督の前作「あめつちの日々」を長崎で上映する手伝いをした時。その日は谷口さんに会うと言って出かけられたのがとても印象的でした。それから程なくして長崎で映画を撮る予定だと連絡がありました。川瀬監督が全身全霊でこの作品に取り組んでいる姿勢や熱量はひしひしと伝わってきました。 映画に関して私から見えている部分はほんの僅かですが、その中でも目の前の出来事はどんどん変化していました。監督が長崎に長期で滞在していた夏、谷口さんが亡くなり、これ以上続けるのは難しい状態でしたが、監督は自分にできること、ドキュメタリー映画だからできること、一つ一つ扉を開き、壁を乗り越え、想像を超えるような道が開かれていきました。そこにはいつも亡き谷口さん、タウンゼントさん、そしてイザベルさんが監督と一緒にいたように感じます。長崎で育った多くは人は、幼少の頃から原爆や被曝についてまわりや学校などで聞いて育ちます。それは目を背けたくなるような怖いもの恐ろしいもものとして刻み込まれていることも少なくありません。しかし、この映画はその恐れや弱さを内包しながらも勇気と愛を持って伝えていくそれぞれの姿が川瀬監督の芸術的な世界観で描かれ、次の世代へ届けたいとの想いを日々の生活の中でも後押してくれます。 このような素晴らしい映画に微力ですが携われたことを心より感謝いたします。

 

原田美穂 / 企画時応援

 私の手元にはひとつのメモが残っている。新緑が眩しい長崎は、高台も路地裏も同じ香りの風が吹く印象だ。“スミテルさんに会った。2017年5月14日(日)原爆病院 626号室” 「爺ちゃん!(川瀬監督は稜曄さんをこう呼んでいた)、今日は友達を連れてきたよ。」 「おぉ、うちに来てほしかったなぁ。グラバー邸が見えてきれいなんだ。花が咲いて。」 稜曄さんは点滴をしながら、ハリのある声で教えてくれた。帰り際に「また来るね」と握手をしたその手は大事な指輪が光り、長い指が印象的だった。 長崎の企業を周り、諏訪神社で映画の完成を祈り、私自身は挫折感を味わったが、完成まで諦めることなく尽力された監督と長崎の方々には、尊敬しかなく、心から拍手を送りたい。今度は沢山の人に、スクリーンで稜曄さんの物語に出会ってもらえるよう、バトンをつなぐ番だ。こんな時代だからこそ、映画という形で。 2021年8月緊急事態下の東京にて。

 

松﨑淳子/ 長崎の制作フォロー

 川瀬監督、イザベルさん、映画製作に関わられたすべての方々、この度は映画『長崎の郵便配達』の完成おめでとうございます。本当にこの日を待っていました。 3年前、川瀬監督とお会いし、映画の趣旨を伺い、私たち長崎のもので何かお手伝いができたらと、ロケハンの宿泊の準備や差し入れ、まるで学生時代の合宿を思い出すわくわくが凝縮されたような1週間でした。一度、出津の丘でのロケ見学の機会がありました。遥か彼方に飛行しているであろう微かな飛行機の音にも注意を払い、聞こえてくるのは真夏の賑やかな蝉の声とイザベルさんの語りの声だけ。ロケハンのメンバーの方々が見守る、静寂で研ぎ澄まされた空間の中に監督の厳しい鋭い視線。この光景は私にとって映画のワンシーンのようでした。 タウンゼント氏は長崎で何を見て、何を伝えたかったのか。娘イザベルさんの言葉を通し伝えられるメッセージ。長崎の原爆をどのように次世代に、未来に伝えていくのかを考えさせられました。優しく強く長崎の平和への祈りのメッセージが伝わる長崎の宝物となる作品です。

 

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